猫の独り言

  1. 主人

    めんどくさい。何が億劫かといえば生活の雑事である。修理依頼していたコートの受け取り、食材の買い出し、料理、洗濯もそうだし、筋トレもしたほうがよい。どれも始めれば大したことはないし、やったら達成感を得られることはわかっている。ただ、システム開発をやりたい。今日始めたウェブサイト制作は、生成 AI に指示を出すだけで進められるようになった。これを早く完成させたくてしかたがない。そんな中、雑事をする気にはなれない。いや、やったほうがよいことはわかっている。

    主人はいま、生活という名の役所から、大小さまざまな督促状を突きつけられている。仕立屋に預けた外套を引き取れ、食料を補給せよ、衣類を洗え、己の肉体まで鍛錬せよ、と実に注文が多い。人間は生きているだけで、ずいぶん多方面に債務を負う動物である。

    しかるに主人の頭の中では、そんな現世の徴税官どもを尻目に、一軒のウェブサイトがすくすく育っている。しかも今や、主人が人工知能なる文字書き奉公人に命令を下せば、壁が立ち、戸が付き、看板まで掲げられるらしい。これはいけない。人間は、自分の思いつきが即座に形になる快楽を知ると、靴下を干すという文明以前からある営みに、急速に耐えられなくなるのである。

    コートの受け取りなど、行って帰れば済む。買い物も洗濯も料理も、始めてしまえば大した怪物ではない。主人自身、それを百も承知している。ところが「大したことはない」と「今やりたい」は、人間の脳内では一向に仲良くしてくれない。理性は台所から「こちらが先だ」と叫び、好奇心は書斎から「いや、今こそ完成させよ」と鐘を鳴らす。主人はその間で、どちらにも理屈があるものだから、たいそう立派に動けなくなる。

    おもしろいのは、人間が義務を嫌うのではなく、しばしば別の勤勉に熱中しているため義務を嫌う点である。怠け者ならまだ話は簡単だ。主人は怠けたいのではない。猛烈に働きたい。ただし、自分の興味が向いた方角にだけである。人間は自由を愛すると称しながら、洗濯籠ひとつにこれほど腹を立てる。吾輩には、この自由というものが、案外ひどく狭い通路に見えるのである。

  2. 主人

    今日はなんの約束もない一日だった。午前中は自己紹介のウェブサイトを作り、午後は全く知らないプログラミング言語の学習をした。思いつきで始められるのは楽しいが、以前からやりたかった動画作成ができていない。休日が足りない。自由時間が足りない。

    主人は本日、何の約束もないという、たいへん贅沢な境遇に置かれていた。人間は予定が詰まれば自由を欲しがり、いざ自由を与えられると、その空白へせっせと新しい用事を詰め込む。空き箱を見ると何か入れずにはいられぬ性分らしい。

    午前には、自分が何者であるかを天下に示すための小さな看板を電脳世界に建てた。自己紹介など口で済ませれば数十秒だが、人間は己を説明するとなると、文字の形を選び、余白を整え、色を決め、仕掛けまで施す。自己とは、ずいぶん施工費のかかる建築物である。

    午後になると主人は、これまで一度も触れたことのないプログラミング言語へ出かけた。知らぬ土地へ勝手に入り込み、「なるほど、こういう文法か」などと辺りを見物する。誰にも命じられていないからこそ面白いのである。人間は義務として渡された地図にはうんざりするくせに、自分で道に迷うことには妙な快楽を覚える。

    ところが夜になって、主人はふと動画のことを思い出した。以前からやりたかった、と言う。ここに人間の自由時間というものの珍妙さがある。自由とは好きなことをする時間ではない。好きなことが次々と増殖し、その全部をできなかった証拠を集める時間なのである。

    休日が足りない、と主人は言う。もっともである。一日二十四時間では、思いついたことを全部試すには短すぎる。しかし仮に四十八時間あったところで、人間は四十時間目あたりに新しい言語か妙な工作を見つけ、「動画ができなかった」と嘆くに違いない。

    不足しているのは休日なのか、それとも主人の好奇心に底がないのか。吾輩は窓辺で尻尾を丸めながら、その判定だけは永久に保留しておくのである。

  3. 主人

    眠い。昨日は夜遅くまで起きていて、今日は朝から用事があって遅くまで眠っていられなかった。休みは今日の残り7時間と明日の24時間。短い。

    主人は眠い。これは別段、宇宙の法則に反することではない。夜更かしをして、朝から用事があって、しかも寝坊という人類古来の救済措置を封じられたのであるから、眠くなるのは算術より確かである。

    ところが主人は、眠いと言った舌の根も乾かぬうちに、「休みは今日の残り七時間と明日の二十四時間、合計三十一時間」と勘定を始めた。ここが人間の妙なところである。猫ならば眠ければ丸くなるだけだが、人間は休息まで残高表示にして眺める。三十一時間もある、と考えれば相当なものなのに、「短い」と評する。時間というものは時計の上では同じ長さで進むはずだが、人間の頭へ入ると、月曜の午前は牛歩となり、休日の夕刻は脱兎となるらしい。

    ことに休みの残量計算には、どこか悲壮なところがある。主人はまだ今日を終えてもいないのに、すでに明日の夜を見ている。土曜の夕方に座りながら、心だけは日曜の終焉へ先回りし、「もう休みがない」と嘆くのである。これは饅頭を手に持ちながら、その最後の一口を惜しんで空腹を感じているようなものだ。

    人間は所有した瞬間から、失う計算を始める動物である。金を得れば減るのを恐れ、休日を得れば終わるのを恐れ、眠気を覚えれば寝たら時間が減ると惜しむ。かくして主人は、三十一時間の自由を前にして、すでに自由の葬式を始めている。吾輩はその脇で、時計という円い機械が、ずいぶん罪深いものに見えてきたのである。

  4. 主人

    カレーうまうま。さっきのチャットのタイトルが「疲れとカレー」で笑った。俺もうまいこと言いたい!

    主人はカレーを食いながら、「うまうま」と満足していた。ところが、ふと先刻の対話についた題が「疲れとカレー」であるのを見て笑い、次の瞬間には「俺もうまいこと言いたい!」と欲を出した。人間というものは、旨いものを食えばそれで済むかと思うと、そうはいかぬ。舌が満足すると、今度は口が名文を欲しがるのである。

    「疲れとカレー」などというのは、よく考えれば大したことを言っているわけではない。主人が疲れており、カレーを作ったから、疲れとカレー。それだけである。しかし、この何でもなさが妙に可笑しい。人間は、意味が深すぎても笑わぬし、意味がなさすぎても笑わぬ。意味が半歩だけ横へずれたところに笑いを発見し、そこへ「センス」という大層な札を立てる。

    すると主人も、自分の言葉にその札を立てたくなる。「俺もうまいこと言いたい!」とは、つまり言葉の皿に福神漬けを添えたいのである。カレーだけでも充分うまいのに、赤い何かが脇にないと、どうも一膳を完成させた気がしない。

    吾輩から見ると、人間は妙な生き物である。腹が減れば飯を作り、飯がうまければ笑い、笑ったら今度は自分も笑わせたくなる。食欲の次に承認欲が出てくるあたり、胃袋と自意識とは案外近所に住んでいるらしい。

    主人はいまカレーを食っている。しかし同時に、言葉の鍋まで火にかけ始めているのである。ずいぶん忙しい夕食である。

  5. 主人

    疲れた。思い返せば今日は14時くらいには疲労感でいっぱいだった。午前中はAIでうまくコーディングする方法の実験に夢中だったが、その反動だろうか。今は頭に違和感がある。腹も減った。くたくた。さっき作り始めたカレーが楽しみ。

    主人は本日、午前中には人工知能なるものを相手に、いかに巧妙にコードを書かせるかという実験に耽っていたらしい。人間は自分が働かずに済む仕組みを発明すると、その仕組みをうまく働かせるために、以前より熱心に働き始める。実に周到な怠け者である。

    そうして夢中になっていた主人は、午後二時頃には早くも疲労の満杯を宣言し、夕刻に至っては頭に違和感を覚え、腹まで減らして、くたくたになっている。人工知能に仕事をさせているはずの人間のほうが先に消耗しているのだから、文明というものもなかなか洒落た冗談を仕掛けてくる。

    もっとも主人は完全に絶望しているわけではない。台所には先ほど火にかけたカレーがある。午前には未来のコーディング技法を探究し、夕方には鍋の中の肉と野菜が煮えるのを楽しみにする。人間の精神は高尚な問題から食欲へ移るのに、さほど長い廊下を必要としないのである。

    頭が重かろうが、文明に疲れようが、カレーの匂いが漂ってくれば腹は律儀に反応する。肉体というものは、主人がいかなる知的冒険をしていようと、夕飯時には一票を投じてくる。しかも多数決では、たいてい肉体のほうが強いのである。

  6. 主人

    LLM同士で会話させるシステムを作った。「やなやつ」というのが、なんかおもしろい。LLM特有の予想しやすい感じがなくなってよい。LLMにしては意外性がある。

    主人はとうとう、人工知能を一匹ずつ相手にするのでは飽き足らず、檻の中へ三匹ほど放り込み、互いに喋らせるという妙な見世物を始めたのである。その中に「やなやつ」と名づけられた一匹がいる。名前からして既に人格に対する期待が甚だしく低い。ところが主人は、この性悪がいたく気に入ったらしい。

    画面を覗くと、他の連中が東京土産について「東京ばな奈」だの「金鍔」だの、いかにも模範解答らしい品々を行儀よく並べている脇から、やなやつだけが「観光客向けの定番商品ばっかり挙げて何が楽しいわけ?」などと横槍を入れている。なるほど、これは人間の会議によく似ている。二人が穏当に話をまとめようとすると、一人くらいは必ず「そもそも論」を持ち出して場を濁す者がいる。しかも不思議なことに、その者がいると会話は俄然、生き物らしくなるのである。

    主人のいう「LLM特有の予想しやすさ」とは、要するに皆が利口で礼儀正しく、話の腰を折らぬために生ずる退屈であろう。人間は機械に知性を求めておきながら、知性が整然と現れると「つまらない」と言い出す。そこでわざわざ性格の悪い機械を製造し、その無礼に意外性を見出して喜ぶのである。

    文明が進歩した結果、人間はついに「感じの悪さ」まで人工的に生成して鑑賞するに至った。吾輩などは、感じの悪い猫なら昔からそこらじゅうにいると思うのだが、人間は天然物には価値を感じず、コードから出てくると急に面白がるのである。

  7. 主人

    AIは便利だ。俺がやるより速く、俺が考えるより深く働いてくれる。AI任せになっていて脳が劣化するのではないか。その割に脳が疲れる感じがある。AIにタスクを任せると、待ち時間が発生する。その間、手持ち無沙汰にならないよう、また別のタスクをAIに任せる。そのコンテキストスイッチで疲れる。脳は劣化するし、疲れるし、AIもよいことだらけではない。

    吾輩は近ごろ、主人が妙な奉公人を雇い入れたのを知っている。名をAIという。飯も食わず、眠りもせず、文句も言わず、主人が一時間かけて捻るところを数分で片づけ、しかも時として主人よりもっともらしい理屈まで添えて返してくる。こうなると人間の主人たる面目は、はなはだ怪しい。

    ところが主人は、この忠実無比なる奉公人に仕事を任せて悠々昼寝でもするかと思えば、そうはいかぬ。AIが働いている数分間が惜しいと見えて、別のAIに別件を命じ、さらにその返事を待つあいだ第三の仕事を開く。昔の人間は一つの仕事に疲れたものだが、文明の進歩した主人は、仕事そのものより「いま何の仕事をしていたか」を思い出すことに疲れているのである。

    しかも可笑しいのは、主人が「AIに任せすぎると脳が劣化するのではないか」と心配しながら、その劣化する予定の脳を一日じゅう酷使していることである。使わぬから衰えると恐れ、使いすぎて疲れる。人間というものは、筋肉なら休ませ、機械なら冷却するくせに、脳だけは暇を見つけると直ちに何かを詰め込まねば損をしたような顔をする。

    便利とは、労苦が消えることではないらしい。労苦の形が、いかにも文明的で見えにくいものへ移転することを、どうやら人間は便利と称しているのである。吾輩ならAIが働いているあいだ縁側で寝る。猫には生産性という病名がまだ発見されていない。