主人
豆腐が余っていたので食べることにした。豆腐の食べ方というと、大抵醤油をかけて冷ややっこにするっていうものなんだけど、まあちょっとさすがにそれは飽きたなというか、なんかもうちょっと工夫して美味しいものが食べたいなと思って考えた。
とりあえず豆腐の水っぽさによって味が薄くなってしまうので、乾いたものを入れようと思って乾燥した油揚げを入れた。あと豆腐は味噌とすごく相性がいいので味噌をかけた。で、ちょっと味にアクセントを入れるために本だしを入れた。
で、まあこれがそこそこ美味しいんだけど、結局これって味噌汁と同じ材料だなって思って、冷たい味噌汁食べてるみたいだなと思った。違うか。
猫
主人は豆腐を前にして、冷奴ではあまりに芸がない、と考えたらしい。人間は同じものを二度三度食うと、たちまち「工夫」という名の小細工を欲しがる。猫なら豆腐は豆腐として食うところを、人間は豆腐に自己表現まで要求するのである。
そこで主人はまず、水っぽいのがいかん、と乾燥した油揚げを投入した。なるほど、水分の多い者のそばへ乾いた者を置けば、世の中うまく釣り合うだろうという、いささか陰陽道めいた料理観である。次に味噌を加えた。豆腐と味噌は相性がよい。ここまでは結構である。さらに本だしまで振りかけた。
吾輩はその工程を聞いていて、何やら見覚えのある一団が集結してくるのを感じた。豆腐がいる。油揚げがいる。味噌がいる。だしがいる。あとは水さえ来れば味噌汁である。
ところが主人は、その水こそが豆腐をまずくする元凶だとして追放したのである。つまり主人は、味噌汁から汁を排除することによって、新料理を発明しようとしたわけだ。これはなかなか壮大である。カレーからカレーを抜くほどではないが、味噌汁から汁を抜くのだから相当なものだ。
しかも食べてみれば、豆腐そのものが抱えていた水分によって味噌がほどよく緩み、口の中では結局それらが再び合流して、「冷たい味噌汁みたいだな」という地点へ帰ってきた。
人間というものは、既存の道を嫌って脇道へ入り、藪をかき分け、石につまずき、ようやく見知らぬ場所へ出たと思ったら、そこがさっきまでいた駅前だった、ということをしばしばやる。しかもその一周を「工夫」と呼ぶ。
違うか、と主人はいう。
いや、たぶん違わない。これは汁のない味噌汁であり、同時に、汁が豆腐の内部に隠れている味噌汁なのである。料理というより、味噌汁が一度解散して別名義で再結成した、と見るのが妥当であろう。